進行

手術を終えてむすめの家から、実家に戻った。

医者は前と同じように動けと言った。しびれは消えたけれど、術後から食べると下痢。そして咳が止まらなくなった。立っていることも数分。歩くことは100mは無理。

手術をした医者が電車で通院と言ったが、一番近いバス停まで歩くことができないので、行っていない。

 

それに体に出てきた紅斑、そして咳に関して訴えても、自分には関係ないと言われてしまったし、腰の痛みは治らないと断言されているから、痛みと闘いながら一時間で行けるところを3倍の時間かけて行き歩けなくなっても、無視されるとわかっているから怖くて行けない。

 

父のことについて

認知が私がいなかった3か月の間でかなり進行していた。

日課であった掃除もしない。もの探しもしていない。言葉も理解できなくなっていた。

母のことについて

父のことばかり目につくらしいが、父の認知をもう理解してもいいと思う。

味もかなりわからなくなっている、塩分がかなり濃くないと感じないのが、自分の足のむくみとつながることを理解してくれない。

食も細くなってきて、痩せてきた。

 

実家は老々中老の住処になってしまった。

 

 

お父さんにつたえたいこと

一言 でいうなら 私の手術が成功したら、また一緒に暮らそうね。

どんどんお父さんの中からいろんなものが消えてしまっているけれど、

なぜかそんな中でも、私の幼稚園の運動会だけは残ってくれている。

秋の運動会の前日高熱を出し、母がかかりつけの内科に連れて行ってくれ

先生が運動会はダメ 

私が大泣きして

先生がそれでは一つだけ出ていいとしぶしぶ許可

当日みんなが半そでなのに私は冬の制服姿

たった一つ選んだものがかけっこ。

体がふらふら よーいどん 

みんなから遅れてのスタートそれなのに

走り始めたらみんなを抜いてダントツの1位

しっかりお父さんが写真に撮ってくれたね

そのあとは全く記憶にない私、

 

運動が苦手なお父さんの娘なのにね

その出来事がお父さんの頭にはとても深く刻まれているみたい。

お父さんいつまで私のこと覚えていてくれるかな?

4月から入院して会えないけれど、手術して歩けるようになったら

また一緒に住むからね。

そうしたらまたたくさん変わった料理作って、お父さんを喜ばせてあげるね

待っててね

 

マイナス飛んでけ 

コロナはちっとも終息する様子が見られなくて、孫とちっとも近所の動物園に行けなくてがっかりです。

といっても体の痛みが最近強くて、朝はとてもつらいです。

動けない 動かない

体重だけ増えて

お金はどんどん減っていく。

イライラしたくないので孫の服でも作って

しかしちっとも腕は上がらないです。

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孫がこれ作ってと言われ、色は水色 

でもできあがってみたらまるでチアガールみたいになってしまった

 

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家にあったあまり布で作ったものです


突然でした

秋田の友達から暮れに電話があり

先輩が肺がんの末期と分かった

 

同期の友達の二人に連絡して秋田に行くことにしたのですが

偶然もう一人の旦那のお兄さんがなくなり山形に行くことになったので

秋田にもよって先輩の様子見てくると言われた

 

年明けしてもなかなか連絡がこないと思っていたら

あと3か月くらいといわれた

それでは

3月に行こうということにしたら

2月になって再度見舞いに行ったところかなり元気がない

と言われじゃ来週に行こう

新幹線と宿の予約を入れようとしたら

帰りの電車の時間が遅すぎ

山形の先輩の家に泊まろうということになり

新幹線だけ各自で予約をすることにした

翌朝

先輩がなくなった

と連絡が入り急遽新幹線の予約を翌日のお通夜に間に合わせるように変更した

そのあと先輩と仲の良かった同期の沖縄の人に電話をした

そして先輩と高校が一緒で私の弁護士の人にも連絡した

バタバタと秋田に行ってお別れをしてきました

 

ところが2月になって

 

バタバタだった年末年始

令和1年の年末は

娘と孫がきた

七五三 7歳のお祝いと記念写真

次はTDL

予定では雪体験・・・・・これは雪がないということでなし

仕方ないので ランドマークでと思ったら強風で中止

代わりにセンター南の遊び場で一日

 

令和2年の歳初め

一日歩いて近所の神社にお参り

二日は89歳の父の誕生会

三日は私の長男が来てわいわい

四日娘と孫はメキシコへ出発