「住みたい場所」

今週のお題「住みたい場所」

住みたい場所ですよね。

生まれたところは川崎のにぎやかな場所

1歳で名前は横浜でも当時はド田舎

生まれて一間の部屋で暮らしていたから

台所とお風呂を入れると5つの部屋があるこの家は

当時の私にはとてつもなく広い家に見えて、母が少しでも見えないと騒いだそうです。

小学生6年で大阪に移り、言葉の壁と生活の違いで苦しんだけれど、それなりに楽しんだ。

結婚して、本当の過疎地で夫と義母からのいじめで孤独の生活を送るようになっていたけれど、子育てと仕事と住み込みを義父の介護で、いちいちいじめで止まっている時間も余裕もなかった。

それ以上に田舎の生活は面白かった。

例えば春になると庭にタケノコが生える。まず家でタケノコ料理を楽しむ。

タケノコといえば 春ガツオであるので、ママさんバレーの友達で漁師の家にタケノコとおすそ分けすると、帰りにカツオがお返しで来る。

夕飯はタケノコにカツオと豪華なものになる。

 

夏は銚子、八街からスイカ農家が無料たい肥と取りに来るときに規格がいのスイカを持ってくるから、スイカも事欠かない。野菜もたい肥との交換で得たので不自由はなかった。

北海道に住んだときは寒さは厳しいが、でも外にずっといるわけでないので、アパートの真ん中の部屋に住むと上下左右で挟まれるおかげで、燃料費はほとんどかからないで住める。水道代は使い放題でおいしい。

食費も安くておいしいのがうれしかった。

 

住みたい場所はどこでもいいと言いたい。

でも今の私は車いすで酸素がないと生きていけない。

ということで住みたい場所は自動的に

病院の近くになってしまった。

情けない。

原始的生活 またやってみたいです

困った質問

今私は、8日意識がなくなり入院。

原因不明で呼吸数が下がり、おまけでいつもの左足に加え左手も動きません。

 

今朝検温、血圧、血中酸素の測定に来た時

「先生からの指示で、今までは車いすでトイレに行ってましたが、歩いて行ってもいいそうです。何歩歩けますか?」

『0』

「聞こえなかったの❓何歩あるけますか?」

『だから0歩です』

「理解できないの?私たちが手伝えば歩けますか?ときいているの。

先生がリハビリで歩行しているからと書いてあるから聞いているの」

『リハビリでも一歩も歩けません。』

 

「わかった。じゃ今まで通り車いすがいいのね」

 

と怒って行かれました。

誰と間違えたのかしら?

 

先生も歩けないデビ退院だから、家用車いすを用意するよう家族に伝えたといったのにです。

 

歩けるなら歩きたい。そして孫と走りたい。一人でマラソンしたい。

いつかはホノルルマラソンに行きたい

でも現実は片足なら10秒できますが、両足になると5秒として立っていられない。

この質問はいじめ

それとも叱咤激励?

 

今週のお題「やる気が出ない」

今週のお題「やる気が出ない」

 

この前母の助けてでしたが、

その母が入院して、医者と相談した結果

リハビリ病院に移り少しでも歩けるようになったら

自宅での介護に切り替えましょう。

移る当日病院の駐車場に着いた瞬間医者から電話が入り

下血したので、内科から外科に移ります。

医者から手術は体力がないからできない。

自然治癒しかないといわれ

少しでもよくなったら自宅介護に変更しました。

自宅介護をするためおむつ交換、食事の介助練習に通うことになり、

1回目は看護師の方法を学ぶ

2回目

その時医者から病院から家まで移動途中で亡くなる可能性が大と言われたのです。

でも、ということで栄養指導を受けていた時

私の視界に変なものが増え見えなくなってきたのです。

あくびをして何とかしたのですが、

知らないうちにベッドの上

呼吸ができなくなり、血圧もいつも180くらいあるのが

70に下がり意識を失ったそうです

でも、難病を持つ私にはいくら見ましょうと言われても

最後はわからない大学病院に行ってになるのがわかっていたので

家に戻ったのです。

家にたどり着いたが意識は薄れ、結局救急車を娘が呼んでくれ

大学病院に運ばれたのが15時

それから検査検査で結局原因はつかめないが入院となり、病室に運ばれたのが翌日の3時過ぎ

 

付き添ってくれた妹と娘は家に着くなり、今度は母の危篤の連絡を受けたそうです。

その時は持ち直したのですが、翌日の朝、連絡をもらい駆けつける前に母は大好きな父のもとに一人で旅立ったそうです。

 

私は連絡を受けても、行きたくても何もできません。

すべて妹に任せベッドの上で体中モニターを付けられいるだけ。

 

そんな私ですが

入院してもう2週間たつのですが

いまだに医者から何が原因で入院しているのか説明がありません。

毎日点滴を受けるだけ、

今回も意識を失ったことで左側が動きません。

リハビリ頑張れといわれても、

去年手術した右足でケンケンでいいからと

?滑って転んだり、バランス崩して骨折?最悪は再発で全く歩けなくなることは?

 

こんなリハビリも治療も意味あるの?

ということで

だんだんやる気なくしてきています。

動けない、といれにもいけない、風呂も入れない。

料理も作れない

やる気が出ない

情けない私 

でもでも、帰りたい

母が着替えるためストーブの前にペタンと座って、着替えを始めたが、そのあと

「立てない」 と言った。

亡くなった父が、なくなる数か月前から、ベッドに寝て、起きるとき滑り落ちて途中で、

「立てない」「助けて」と叫び。

母が「お姉ちゃんお父さんが」

と階段から叫び、私が毎日のように助けに向かった。

ただ変な形でベッドで滑りそうなときは、足を持ちベッドにしっかり上げて、次に背中を持ち上げて普通に立たせる。下に落ちているときは、低い椅子をお尻の下に滑らせて、その上に座らせ、次に普通の高さの椅子に移らせる。 私も腰の骨が折れているので、腕の力のみで起こすから結構苦しかったです。

 

でも母の場合は骨がボロボロとても怖かったです。でも椅子からも立ち上がれなくなり、食欲が落ちすぎたので、入院となったのですが、

父と違いすでに体中がボロボロになっていたのです。

肺も心臓も、腎臓も腸もなのです。

家に帰りたいという願いをかなえるため、連休明けに家で介護をすることにしました。

 

今度はどんなことが起きても、家で母を妹と二人で

そして、笑顔と優しい言葉で父の時のように過ごしてもらえるよう。

頑張ります。

父は家に帰るはずが施設で急変し、病院で亡くなったことが、私にはとても悔やまれます。

「90の誕生日は家でするのだから、しっかりリハビリしてね。」

『90?そんな年寄りになりたくない。』

これが私がした最後の会話でした。まさか本当に21日前に亡くなるとは思っていませんでした。

母の誕生日は7月8日 米寿です。

おいしいものを毎日作るからね。

お母さん

 

今週のお題「間取り」

今週のお題「間取り」

今週のお題はとても難しい。でもよくよく考えたら変な間取りというのは、私が住んでいた。そして今現在住んでいる家そのものと思えました。

 

今住んでいる実家は最後にかきまから

小学校6年の終わりに大阪に父の転勤で引っ越した家は、遠目から見ると、まるでアパート。台所が隣りと向かい合ってあるので、隣の家の今日の料理がわかる。また台所から出るときは必ず戸を叩き返事がないことを確かめて開けないと、出られる隙間が確保できない。一度台所にいると、ぼこぼこ音がするので母に伝えると、「お風呂が煮立っている。」慌てて隣の玄関の戸を叩くと、酔っ払って玄関で寝ていた御主人がいて、

「アッ お風呂に水を入れて、沸かすスイッチ入れたのは覚えているけれど、忘れて寝てしまった。」

と慌ててお風呂に向かったら、危うく空炊きで火事になるところで怖かったことを思い出しました。

結婚して千葉に住ん舅がいる間は、舅と新米大工が造った家なので、春になると床がタケノコによって床が持ち上がりやたらとすーすーすると思ったら、床が抜けていたということが毎年起きました。

子供が増えて増築したら、もっとおかしな家。家の中に一段低い廊下そして4段の階段があり、さらに二階に行く階段があるという変な家。でした。

50歳で大学受験して、末娘と大学の近くに下宿した時は、風呂場のところに洗濯機を置くところがあるのに、水道と排水ができない。洗濯機は台所に冷蔵庫と並んで置くしかなく、おかげでふろ水を洗濯に使うには、毎日娘とバケツリレーしました。

3年で北海道に編入したのですが、そこのアパートのオーナーから、広い部屋には家具は置いてはダメ、日が差すから、床に当たらないようにすることと言われました。でもそのおかげで、12畳の部屋は何にもないすっきりとした部屋となったのでした。

 

さてさて最後が今いる家、両親のこだわりというのか母のこだわりというのが正確なのですが、なぜか二階に台所があります。これは妹夫婦と同居を勝手に決めて作ったそうです。でもガスが通っていないので使えません。台所のシステムは母の身長が150ないのに、170㎝の人用の高さで作られています。

そして母の口癖が 揚げ物は汚れるから作るな。築65年。確かに増築して新しく台所はなりましたが、すでに35年もなっている家となった今でも言います。

おととし下水の検査に来た人が、台所のパイプからの水の流れを見て、65年たっているのにきれいとおどろかれました。 ほかの家は家を建て直して数年でも、パイプが詰まりそうだったと言ってましたので、母の揚げ物はするな。は家を大切にするには必要なのだその時思いました。

 でも父がなくなり、相続で銀行から言われた言葉が家の価値はゼロ。屋根も直し外壁も直してまだ半年もたっていないのにです。

 ということで、私は便利な間取りの家に住んだことがないけれど、変な間取りの家にはたくさん住みました。 

 

千葉の家は、穴が開くと私がそこに骸骨マークを付けて危険と書けたので楽しかったです。ふすまの張替えと言って、自由に絵を描いたし。お客に丸見えになるので、自宅の窓に季節ごとにイラストを描いて楽しめました。

これってもしかしたら、便利な間取りだったのかもしれませんね。

 

 

今週のお題「祝日なのに……」

今週のお題「祝日なのに……

私にとって祝日は 結婚して離婚するまではゼロ。

正確に書くと、夫は週休6日 働くのは1日。

私は365日熱があろうと、大けがをしてもなし

出産しても陣痛が始まり、子宮口が5センチに開くまで、仕事して

退院したその日から仕事、家事。

休みは高熱を出して、意識を失ったときを

夫から殴られ意識を失っている間

難病で入院している間

でも入院しているときも夫は病室に帳簿を持ち込み、動けない私に「次に来るまでにやっておけ」のメモを残して帰ったので、肉体労働はないけれど、事務的仕事は休みなかったです。

 

s毎日祝日、と言いたいのですが、

結婚直後から始まった夫の両親の介護ですが、

離婚して実家の両親の家に居候してからは、自分の両親の介護が始まり、

結局は自分が入院している間以外は休みなし。

夜中も起きることも同じ

 

休みの過ごし方 知らなので、祝日があってもなくても、私にはない。

祝日過ごし方はわからないと書けば簡単なのに、だらだらと説明した私、

きっと祝日に憧れがあるのかもしれないです。